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秦 賢司(はたけんじ)牧師からのメッセージ
世界につながるあなたの教会夙川聖書教会にようこそ。
また、世界につながる夙川クリスチャンセンターにようこそ。
私たちの教会は多くの国の方々が頻繁に訪れる、良く知られた国際教会です。
そして、その教会で運営されている英会話クラスが夙川クリスチャンセンターの英会話です。そして、夙川聖書教会の礼拝堂がリバーサイドチャペルです。
キリスト教そのものが非常に国際的なものですが、私たちはその国際性を実際に大いに楽しんでいます。いつもいろいろな国の方々が来られて、心通う交わりができ、それぞれの国の生の情報もよくわかります。あなたもこの交わりに大歓迎いたします。ぜひお越しください。
当教会の何よりの特徴は、牧師の礼拝時の講解説教です。説教は英語で同時通訳されています。講解説教とは、聖書原典を、その原文の、ヘブル語とギリシャ語で再翻訳して分かりやすく話す説教のことを言います。この説教は準備に大変な時間がかかる説教ですが、とっても納得の出来る深い話になります。
日曜礼拝に来られて、ぜひ一度お聞きになってみてください。あなたのキリスト教観が全く変わると思います。あなたの人生の問題に、聖書ははっきりと答えを与えてくれるでしょう。
最近書いた文章を二つ載せます、ご感想をお聞かせください。 scc@msg.biglobe.ne.jp
☆人生における錯覚・・・その一「健康こそすべてだ」
「神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。」「すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。」(ヘブル人への手紙12章7節、11節)
私たちは健康をとても大切に考える社会に住んでいます。健康の増進をはかり、健康の保持に注意し、そして、健康のために様々なことを考えて行なう。つまり、健康でないと色々なことができないと強く言われ、健康を失うことによって様々な不都合が起きるから、健康こそ何にも増して大切なものであると。もうこれは真理のように思われています。
それで、私たちは健康を失うことを恐れ、病気に遭うことを恐れ、事故を恐れます。健康を失ったところには、まるで何も良いものがないかのように思います。また、痛みや苦しみに遭うことを恐れます。そういうものが私たちに全く無益であるかのように思われるからです。
果たしてそうなのでしょうか。私たちは一度立ち止まってこのことを考えてみるべきだと思います。それは、私たちが人生の大切なことを学び、間違った道から方向を転換させられ、健全に成長する大きなきっかけとなるのは、思いがけない事故、病気、苦しみを通った時ではないのか。私は自分の様々な体験からそう思うのです。
自分が痛みに遭うまで、私たちは他の人の痛みが十分にわかりません。また、自分が苦しみに遭って、やっと苦しみの中にいる他の人の心がいくらかでもわかるようになってくる。それが「健康な」私たちの思ってもみなかった死角であったことを、私たちは思いがけず体験します。自分が様々な形で人生の苦しみに出会うことは、また、様々な形で、生きることの深さ、豊かさ、また奥行きの広さを知ることでもあります。困難や苦痛に出会うことは、ともすれば平板で浅はかになりがちな「健康しか知らない私」を、自分や他人の心の陰影を理解する深みのある人間にしてくれます。
深い人間性を持ち、そして思いがけない問題にも打ちひしがれることなく人生の年輪をしっかりと刻んでゆこうと願うなら、このような苦痛や困難がどこを源にして発しているのかということをしっかりと捉える必要があります。それは、万物のまことの創造主であり、今も生きて働いておられる全能者である神が、このようなことが私たちに起こることを許し、私たちを正しく整えようとしておられるところから来ているのです。私たちはそれが人生の祝福の一部であると受けとめるわきまえを求められているのです。
私たちは私たちの人生に与えられる苦痛や困難を、自分勝手にそれが「悪」であると即座に判断することに慎重さを求められているのです。聖書は、神が私たちにいつも「良きもの」をお与え下さっていると受け取る必要があることを教えています(1テモテ4:4)。一見難しいことかも知れません。しかし、苦痛も苦労も困難をも、私たちは神の御手よりのものとして受けつつ、治療もしながら黙々と耐え、そしてその中で神に向かって誠実にこのように問うようにするのです。「神よ。あなたが愛と善の神ならば、私にどうしてこのような苦しみをお与えになるのですか」と。この深い叫びを持って神の前に出る魂に、神は真実に答えて下さいます。あなたは、あなたのために苦しんで死んでよみがえられたイエス・キリストがあなたを導き救って下さるということを、聖書により、聖霊により、以前よりももっとよくおわかりになって来られることでしょう。
そしてあなたは知るでしょう。あなたが経験した苦痛や困難こそ、あなたへの神からのまことの救いのみわざへの招きであったことを。そして、あなたは納得するでしょう。父や母のしつけや訓練が当座は喜ばしいものではなくても、のちになれば、その教えや訓練の意味がはっきりとわかり喜べるように、あなたが神の豊かな愛のみわざの中に生かされていることを。
悲しみや苦しみの中にあなたは今おられるでしょうか。失意落胆する必要はありません。いや、むしろ、神はあなたを豊かに愛し、神の大きな永遠の救いの恵みのみわざを、今あなたに起こしておられるのです。神に向かって祈り、そして、ますます主イエス・キリストを知りましょう。これはあなたの霊の目が開かれる産みの苦しみの時であることを深く覚えましょう。
☆人生における錯覚・・・その二「死んだら終りだ」
イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じるものは、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」(ヨハネの福音書11章25、26節)
私たちはあいさつでよく「お元気で」と言います。これは「事故や病気に遭わずにご健康で」と言うとともに、「死なないようにしましょう」と言っているように思います。健康を損ねることを恐れる私たち。それは病気を恐れるとともに究極的には「死」をも恐れているということではないでしょうか。
なぜ死が恐ろしく感じられるのでしょうか。それは、死が、だれもその先を知らない未知の世界だからでしょう。そして、死後の世界を恐れるのにはさらに理由があると思います。それは死後を考えることそのものが様々な恐ろしい空想を私たちにもたらすからでしょう。私はある時、今考えているこの自分自身が全く存在しなくなるということをまじめに想像してみました。そしてそのことに深い空虚感を感じざるを得ませんでした。自分の存在が、この考えている心も含めて全く消滅してしまうことを深く考えるのは、不思議に恐ろしく、また本当に空しい思いのすることでもあります。
人間が死を恐れるのは、私たちの魂が死の後も存在することをある程度自覚しているので、死後の裁きを恐れるからであるとも言われます。死んですべてがさっぱりと終るなら、この地上では、生きたいように生きるだけです。ところが、この地上でていねいに正しく生きようとしないなら、良心も痛み、様々な問題が起こり、また問題に巻き込まれ、人間関係がうまくいかないだけでなく、自分自身の生活の隅々まで、心の中まで混乱しだします。私たちは、あたかも細かいところまで神の裁きがあるかのように思って生きると丁度良いかのような人生を生きているのです。
しかし、自分の周辺だけを見ていると、この正義も正しい裁きもきちんと行なわれているようには思えません。死後の世界についても、多くの人はそれがあるのかないのかどっちつかずの、実にあいまいな考え方なので、そのあいまいさのゆえに、人生が不可解にも思え、心の病が増え、その結果思わぬ行動を起こす人が次々と出てきているのだと私は思います。
とりあえず目に見えるものばかりを信じている現代の私たちは、いのちがどこまで続いているのかを十分に理解していません。自殺が増えているのも同じ理屈からだと思います。死が最終的な問題解決だととっさに思い込んでしまうので、また、とりあえずこの苦しみからは逃れられるとは思えるので、何か割り切れない終り方で人生の終りを自分で勝手に決めてしまうのではないでしょうか。「死んだら終わり」というのは本当なのかという検討を、私たちはもっと真剣にすべきだと思います。ここがわからないので、人生もいのちの意味もわからないのです。
歴史上ただ一人、はっきりと死よりよみがえり、弟子達の前に四十日間復活の姿で現われて教え語ったのち昇天された「イエス・・キリストの復活の事実」をあなたは知るべきです。そして、私たちのこの地上の生涯は、聖書が教えているように、神の前にことごとく記録されていて、私たちはその行ないに応じて裁きを受けるということも知るべきです。さらに、イエス・・キリストの十字架による身代わりを信じる者は裁きを免れられるということも。キリストを信じてこの世を生活し、その信仰を全うして死ぬ者は永遠のいのちを持って復活し、神のつくられた新しい御国で神に仕えて永遠に生きるということも知らねばなりません。
私たちはこの地上の人生が終わって死んでそのまま絶滅するのではありません。その先がある事を聖書は明瞭に教えています。イエス・・キリストを信じる者はイエスを信じたその日から救われ、永遠のいのちの歩みを始めます。その人にとってこの肉体の死は、この地上を去って栄光あふれる神の国、天国の永遠のいのちに入れられるという祝福にあずかることなのです。このような確信の上に立った堅実な人生をだれでも送ることができます。このような、光りあふれる死生観を持つ人にあなたもなることができます。「イエス・・キリストの復活」という抗する事のできない歴史的事実をもっと深くお知りになるところに鍵があるのです。
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